今は昔・・・?

山人の独り言 富士宮ネット新聞

今年は終戦から六十年になる。六十年間平和が続いているのは明治維新以来はじめてである。平和な六十年の間に豊かになり、快適で便利な生活ができるようになった。それはそれで良いことであり、だれもが求めるものである。しかし、注意しないと目には見えない大切なものを失ってしまうこともある。それも明確なデータもなく、科学的な根拠もはっきりしないものだと、あまり気にすることもなく通り過ぎてしまう。

昭和五十年代まで、私たちが子どもを育てる頃は、子どもができると布で「おしめ」を作り洗濯をしながら使うのが当たり前だった。最後は雑巾やウエス(wasteがなまった語・汚れをふき取るぼろ布)として洗車の時に使い、結局十数年にわたって利用した。「おしめ」に縁もなくなり、ふと周囲を見ると「おしめ」を干している風景がなくなっていた。いつしか使い捨ての「紙おしめ」の時代になっていたのだから当然である。ずいぶん資源を使い、ゴミも多くなったであろうと思う。そんな時代の流れに、ゴミ以上に不安を感じることがある。

生命は安全か危険か、快か不快かを基準に活動する。どんな生命も安全・安心・快適を第一にする。だから快・不快は生命の原点であり、感性の原点でもある。「おしめ」はぬれる。しみてくる。赤ちゃんは不快だから親に知らせようと様々な語りかけをしてくる。親はその語りかけを読みとろうとする。そこに親子の絆が育まれる。親の感性も磨かれる。しみ出ない吸収性に優れた便利で快適な「紙おしめ」は、快・不快という生命の基本が失われないのだろうか?快・不快は感性の原点である。感性はセンス(sense)と言う。センスはセンサー(sensor)で感じて生まれる。原点となる赤ちゃんの時にセンサーが磨かれなければセンスは悪くなる。地面や人が通る階段、電車の床に平気で座りこみ、そのまま部屋やベッドで寝ころがる。快・不快のセンサーが壊れた姿かなと思う。高校生を中心とする若い人に、清潔感・美しさ・さわやかさが感じられない人が多くなったような気がする。

旅行の時や老人介護に「紙おしめ」は必要であろう。すべて「布おしめ」にせよとは言わない。しかし便利と快適は、よく考えないとその陰で大切なものを見失っているかもしれない。まあ、富士山の麓に生まれ育った山人の独り言です。

このコラムは2004年から、ふじのみやふぁいるずで掲載されたコラムを再掲したものです。時代とともに背景も変わってきていますので、その点を考慮の上、読んで頂けましたら幸いです。

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